沼を行き来する

いろんなところにいます

「書く」ということ

 はじめて「書く」ことが好きだと自覚したのは小学校三年生の時だった。
 三年生の時の担任H先生は、この学校でも「かなり」の変わり者の先生で有名だった。


 当時まだ一家に一台あるのも珍しかったパソコン。どの先生よりも、音楽制作ソフトやイラストソフトを使いこなし、自作の歌やイラストを日々制作。
「給食室には絶対一番乗りで向かう」という謎の強い意志を持っていて、毎日四時間目の授業を五分ほど切り上げ、給食当番の生徒は大急ぎで着替えさせられた。昼休みは「全生徒が外に出て遊ぶように」と全員が外に出たのを見計らって教室に鍵をかける。仕事が山積みであろう先生も嫌な顔一つせず、一緒になって校庭で汗だくになりながら全力で遊ぶ。
 終わりの会では、「誰誰にこういう悪戯されて嫌でした」という告発に、早く帰りたいがために相手が「はいはいすいませんでした」と適当に謝って終わりという流れを先生は許さなかった。「なぜそんなことをしたのか」「相手にどういう理由で申し訳なく思っているのか」というのをしっかりと判断させない限り、一時間くらいは平然と終わりの会は延長され、他のクラスの子たちも窓から顔を出し、この長い長い終わりの会を眺めていた。
「先生は結婚してるんですか」という質問に、「僕は結婚していない。だけどパートナーはいる。彼女はインドネシアで仕事している。離れているけど思いは通じているから、寂しくはないし、結婚だけが選択肢ではないよ」と、幼いわたしたちに説明してくれて、そういう形があるのかと初めて知った。
 初めて知ったと言えば、海に放り投げられた時の対処法や、ケガしないこけた時の受け身の取り方もこの先生の授業の余談で学んだなぁ。
 H先生が担任に当たったのは、この一年間だけだったが、授業内容を飛び出した「知らないこと」をたくさん吸収させてくれた。独特ゆえに、苦手だと感じる生徒も多かったが、わたしはこの先生が後にも先にも一番好きで、尊敬できる先生と思っている。

 このH先生の一番の特徴は自習ノートの制作と提出だった。
 宿題に加えて、各々で好きなノートを用意し「自習ノート」を作り、毎日(もしかしたら二日に一度?)提出することを義務付けていた。自習ノートなので、内容は「勉強をしているなら国語でも算数でも、体育のことでも何でもいい」。
 同じ学年でも、他のクラスではやってないことだったので、「宿題が一つ多い」とおおっぴらに嫌悪を示す生徒たち。わたしも最初は「嫌だなぁ」と思っていた。
 わたしは基本的に授業で新しく習った漢字の復習として、一つの漢字に対して五~十回ずつ書くみたいなことをして提出していた。
 きっかけがまったく思い出せないが、いつからか、わたしは漢字の練習をしたその下の部分に四コマ漫画を描いて提出しはじめる。
 ワニタとワニオという二匹のオスワニが主人公。ワニタは頬が紅く、天真爛漫、ワニオは釣り目で悪戯好き。
 自習ノートとはいえ、マンガを描くのは怒られるだろうと思うのだが、これがなぜか怒られなかった。むしろ、「よく描けてますね」と褒められた。
 そのあと、調子に乗ったわたしは、このマンガを一年間描き続けた。メスワニキャラ(名前忘れた。たぶんワニコとかワニミとか……)や、パンダのル・パンダとカエルのケロリラ(この二匹はまだ描けるくらい愛着がある)など仲間が増えていった。何度か、マンガを真剣に描きすぎて、自習パートを怠り、「勉強はちゃんとやらなきゃだめです」と再提出を食らったこともあるが、それでも先生は「次回も楽しみにしてますよ」と一言赤ペンで添えてくれるのだった。

 そんなある日、ワニタとワニオで小説を書いた。これもなぜそうなったのか思い出せない。たぶん絵では描き切れないと判断したのか……?
 内容は今で言うところの音楽フェスで「どちらが観客を沸かせられるか」をワニタとワニオが競うみたいな内容。確か、ページいっぱいに小説を書き、下部に気持ち程度の挿絵を添える。それがわたしの人生で最初に描き切った小説だった。
 表現の拙さはおろか、小さい頃から字が恐ろしく汚いので、たぶんとても読みにくかったと思う。それでも先生は読みきって、しっかりと感想を書いてくれた。そして、
「将来、小説家もいいですね」
 そう締めくくられていた。
 
 クソ真面目、人見知りで気弱な性格のわたしを「褒めて伸ばそう」と思って書いたお世辞だったかもしれない。
 けど、嬉しかった。創作活動をずっと肯定し、応援してくれたことが。
 卒業して二十年以上たった今でも、この一年のことが忘れられないでいる。後にも先にも、こんなに褒めてくれた人はいない。
 先生とは年賀状のやりとりを大学入学したあたりまで続けていた。「大阪の芸大に入学します」と一言書いたら、「今も続けてるんですね」と喜んでくれていた。

 H先生はわたしが中学生の頃に教師を辞めて、インドネシアに移住したと聞いていたが、こないだ母が「H先生ね、日本帰ってきてるみたい。こないだ道で見かけた」とサラッと教えられた。会いたいが、きっと覚えてないだろう。それか、わたしが小説家なり、マンガ家などちゃんと実力をつけて、職にしていたのなら、胸を張って会えたかもなぁと思う。
 そういうすごい人間になれなかったけど、わたしは書き続けている。たまに描くほうもする。何度も自己嫌悪で筆を折っては、テープでぐるぐる巻きにしてまた書き/描き始める。書ききるのも遅い方で、よく煮詰まり、何度も諦めそうになる。けれど、小学三年のわたしが心に住まう限り、わたしは一生こうやって生きていくんだろう。